伝統復活の家づくりを!
五月の連休も終わり通信をお届けする頃は初夏の汗ばむ頃と思います。
毎年お尋ねしていますが、皆さま何処かへ行かれましたか?
私は恒例の中央電気倶楽部様の営繕工事で全休日を出勤しました。
といっても、世間は休みで回りは静か、携帯電話は殆ど鳴らずで、やっぱりゆっくりしますし、朝夕の段取りがすめば後は職人さんがやってくれますので、普段とは違います。
やはり気分は幾分リフレッシュしました。
特に今年は、四月の誕生日で満60歳、還暦になりました。
童謡の村の渡しの船頭さんと同じ歳です。
誰かのせりふではないですが、恥ずかしながらと言うところです。(笑う)いわゆる、世間で言う団塊の世代のトップバッターです。
誕生日が4月17日ですので、国民的関心事の、現憲法の施行前、大日本帝国憲法の終焉した空白期間に生まれたことになります。
「古いね!」なんて、廻りから言われましたが、平和憲法のもと、ありがたい時代を生きて来たと実感します。
兄弟会と子供たちが連休中に日を変えて、お祝いの会をしてくれました。
嬉しいような、・・・・と言う気分です。
過ぎ去ってしまえばあっという間に感じますが、色んなことがありました。
これから先も過ぎてしまえば同じように早いでしょうが、まだまだやりたい事がいっぱい有ります。
振り返りますと、昭和22年頃は物資(食料)の無い時代で、そのせいかどうか解りませんが、生まれて直ぐは、死に掛けの栄養失調で、両親は多分助からないだろうと思っていたそうです。
それが、ある伝手から、配給のミルクを余分に手に入るようになり一回2〜3本の哺乳瓶のミルクを飲ませるとけろっと飲んでしまい、見る見る元気になっていったそうです。
幼稚園は当時1年保育でお寺が経営されておられ、お墓の横にありました。
朝は9時から夕方4時ごろまでの保育で何を習ったかは覚えていませんが、昼寝の時間が一番嫌で寝られずによく怒られたのを覚えています。
小学校の入学式は2年下の弟と6年下の妹がいましたので、父に連れられて行きました。
当時は木造の校舎で外壁は杉か桧か当時の私では解りませんが、(笑う)下見板張りで木製窓に透明ガラスが入っていました。
廊下の運動場側外壁面に30cm位の巾の白い紙に墨で縦に書いたクラス別けの名前が張ってあり、其々が自分の名前を探し、クラスと担任の先生を確認するシステムでした。
しかし、父と順番に見て行きましたが、いくら捜しても自分の名前が見つかりません。殆ど最後近く、泣きべそをかき出した頃、やっと1組の2番に自分の名前を見つけることが出来ました。
何せ団塊の世代ですので一学年500名を9クラス別けしてあり9組の一番後ろから見ていきましたので時間が掛かるはずです。
この歳になっても小学校の入学式の印象が深く残っています。
育ったのは大阪の下町でしたが、小学1、2年頃までは近くに田圃も畑も綺麗な小川もありました。
しかし、数年後には、田圃や畑には「農薬注意」の赤い張り紙が張られ、スレート葺きの工場が小川の側に建ち、たちまち川は生物など全く住めない「どぶ川」になっていきました。
勿論立ち入り禁止になっていますので、遊んだのは空襲で焼けた大家のお屋敷跡、疎開されて戻ってこられてない空き地で、探検ごっこや、道路で三角ベースの野球です。(三角ベース野球とは1塁の次が3塁そして本塁の狭いグランドでやる野球です)車が殆ど通らなかったので出来たのですね。
父は大工棟梁でしたので家には職方がよく出入していましたし、近くの現場や作業場での大工さんたちの作業風景は興味を持って良く見ました。
戦後の復興景気でドンドン町が変わっていく時代に育ち、意識する暇も無いくらいのスピードで、今流に言えば町並みが壊され、古い物は捨て、新しい物も、「使い捨ての時代」に入りました。
住宅の工事では、解り易くいえば新建材全盛時代です。
日本の文化的な歴史では、一番貧しい時代に育ったと思います。
なんだか「私の履歴書」のようになってきましたが、要は建築の仕事をしてからも、まだまだビニールや新建材の比率の高い家が多かったのです。
そんな中で、「本物の材料、工法に切り替えていかないと」と気付いてから、二十年近くなります。
スタートが新建材全盛時代から始りましたので、本物志向の伝統復活のやり方も、やっと自分のものに成り掛けてきたかな・・そんなレベルですので、今までの「いのこう通信」でも色々申し上げましたが、還暦を機に「これから自分のやりたい仕事をする」と言うのが実感です。
最近聞いた、龍村仁監督はガイヤ理論の話のなかで、こういう風に言われていました。『先ずビジョン(希望)を持ってそれに向かって努力する。
そしていつまでも謙虚に、自分一人の力では何も出来ない、大きく言えば、地球全体の目に見えない力で、自分は生かされている。(仕事をしている)と言うことを実感して、常に感謝の気持ちを持つこと、そうしていると最初のビジョンから外れた事になっても、これが自分の進む道だったのかと感じられることができる』。
私としては、今までの建築人生の経験を活かして、「60を過ぎたからこそできる仕事」をやっていきたいと思っています。
「それってどんな仕事ですか?」と質問が有るかも知れませんが、折々に《いのこう通信》、《ブログ》、《HP》などでご紹介できれば嬉しい限りです。
この原稿は室生の山の草むらに木のテーブルを置いて書きました。
杉や桧の木々、草や土、虫たちから何か希望の湧く波動を貰った気がしています。
最後までお読みいただきありがとうございました。お礼申し上げます。
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