春が来ました。
『さまざまのことおもひ出す桜哉』 芭蕉
この季節になりますと決まってこの句を思い出します。
日々忙しく毎日を過していますと、一週間、一月、一年があっという間に過ぎていくように感じます。
先日近所の中学校の前を通りかかったとき、桜が満開でした。花の下での卒業式や入学式、色々な思い出が蘇ります。
家づくりも一軒建てるのに数ヶ月から半年以上かかり、設計の期間を入れますと一年以上掛かる事もあります。
いずれの現場にも其々の思い出があり、今でも図面を見たりしますと工事中の色々な事を思い出します。
家づくりには其々に一つのドラマがあります。
私たちは、そんなドラマの演出家的な仕事をしているように思えます。
大変さもあるものの楽しさを見ていきたいといつも思っています。
さて、桜といいますと先月号で志村ふくみさんの『一色一生』の話を書きましたら、いろんな方からお便りを頂き、ある人からは蔵書でお持ちだったか存じませんが、わざわざ本をお送りいただきました。
タイトルからして、物作りを生業にしている身としまして、きっと勉強にはなるけれど、著者の生き方から比べれば、恥かしいことだらけだろうと予測はしていましたが、想像以上でした。
そこには繭から糸を紡ぐ話から、染色の話まで、そして藍染めの話が紹介されていました。
草木染から、藍染の世界(藍を建てると書かれていました)に入っていかれたとき、志村ふくみさんが師事された先生が、初めて仕事場にこられたときのくだりが印象に残りましたのでご紹介します。
はじめて仕事場に来られた片野先生が言下に「貴女は、藍がこんな奇麗ごとでできると思っているのですか」言葉鋭くいわれ、藍に対する根本的な心構えを話された。
「藍を建てることは子供を一人持ったと思わなければならない。藍はその人の人格そのものである。藍の命は涼しさにある。」と言われた。
四季折々に移り変わるこの国の自然はあの日本海の深い藍を産み、透明に光る秋の空を生んだように、
日本の藍ほど内面的な寂しさと、輝くような紺瑠璃色の美しさを湛えた藍は何処にもないと思う。
その純度の高い藍色は古来よりの法則を守って建てなければならない。すなわち木灰汁によるふすま建ての方法である。
化学染料と薬品は従来の方法から見れば百歩を一歩に変えてしまう簡便さを持っているが、命ある色を染める事は不可能であり、命ある色は命あるものから生まれてくるものである。と言うのが片野さんの信念である。
「命ある色」を「命ある家」と変えて考えますと、今の建築は命あるものを殆ど使っていません。
その殆どが工場で加工生産された物ばかりで占められています。木材にしても工場で加工され、梱包された物を取り付けるだけが今の大工の実態です。
屋根に草を葺いて全て土壁にして、製材も機械ではなく、木挽きで製材してなどは、現実不能な話ですが、せめてもと、木材は大工が自分で選んで木を加工して使っています。
しかし木材を自分で加工して造作できる大工も段々と減ってきて、この先どうなるかと思うときがあります。
今、明治時代に建てられた民家の再生工事をさせていただいていますが、昔の大工の手仕事には本当に敬服します。
いいか悪いか別にして、正に昔の棟梁の百歩が今の一歩ではと感じるこのごろです。
今月もまた、堅い話で終わりそうです。
この後、みんなでお花見に行く約束の時間が来ましたので、今月号はこの辺で終わります。
『願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃』 西行
誰しもそう願うと思いますが、花見酒のあとの飲酒運転だけは絶対にやめましょうね。
明治時代の大工の書いた番付です。角材の上面は鉋掛けしてありますが、側面は斧で割って斧で仕上げた刃の跡が残っています。桧は120年たっていてもまだまだしっかりしていました。
(社長のブログより)
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